夏文化 かぶんか
夏文化
かぶんか
Xia wenhua
中国・河南省中西部の伊河・洛河流域を中心に存在した、夏王朝の支配下で夏という人間集団が残した遺物・遺跡の集合体。ここ数十年にわたる発掘調査で、河南省偃師二里頭遺跡でその都が発掘され、文献記録に多く見られた伝説的な夏王朝の実在はゆるぎないものとなりつつある。また、夏文化(以下二里頭文化と称する)とほぼ同じ時期に、山西南部(東下馮類型)、河南南西部(下王岡類型)、河南南東部(駐馬店類型)、河南東部(牛角崗類型)にそれぞれ別の土器文化が併存したことが、考古学的に確認できた。
1926年、夏文化の真否を確かめるため李済が山西省夏県西陰村で調査を始めた。そして、59年古史学者徐旭生の提唱で夏文化が再び探索され、中国社会科学院考古研究所により二里頭遺跡の発掘が始められた。現在、遺跡面積約300万㎡にのぼる遺跡の全容が明らかになりつつある。遺跡では縦横に走る幅15〜20mの街路があり、東南部〜中部には整然と区画された宮殿区があった。宮殿区では、確認された1〜6号の宮殿の内の1号・2号・4号が発掘された。総面積約1万㎡、回廊により囲まれた1号宮殿は、巨大な正殿と広い中庭を持ち、後世の宮殿と基本的に同じ構造を持っている。1号宮殿の南に九つの竃を備えた厨房の遺構があり、宮殿の饗宴や儀礼のための施設と思われる。宮殿区の周囲に祭祀区・貴族居住区・製造工房(銅器・トルコ石製品・石器・骨器・土器など)が配置されている。一般居住区は遺跡の西部と北部にあり、墓や窯跡は数ヵ所で発見されている。
学界では、二里頭遺跡と二里頭文化は夏文化であるという共通する認識はあるが、具体的に大きく二つの見解が見られる。一つは、二里頭1〜4期のみ夏文化であるとする見解である。もう一つは、二里頭4期は殷文化であるが、二里頭1〜3期は夏文化の主体であり、それより先行する龍山文化後期(新砦や王湾3期文化)は、夏文化の初期段階であるとする見解である。二里頭遺跡と同じ偃師にある偃師商城の築城は、二里頭文化4期であり、ほぼ同時期に二里頭遺跡の王宮が破壊されたことから、二里頭4期に王朝交替が行われたと想定される。文献記録によれば、夏王朝は禹から桀まで17王であり、その存続年代について、これまでに様々な説が見られる。放射性炭素年代、天文学と『竹書紀年』の記事に基づいた「夏商周断代工程」の公式見解は、夏王朝の始まりをBC2070年、夏から殷への王朝交代をBC1600年としている。二里頭文化の栽培作物にはイネ・アワ・ダイズ・コムギ・コウリャンなどがあり、家畜はウシ・ヒツジ・ブタ・イヌがある。農業以外に牧畜と狩猟・漁労も重要な生業である。また、二里頭文化の威信財的な酒器・玉製礼器などが周辺地域で出土していることから、二里頭文化を中心とした周辺文化との交流が盛んに行われたことがうかがえる。
(陳洪)
以上、転載
