ヤールホト墳墓群 やーるほとふんぼぐん

ヤールホト墳墓群
やーるほとふんぼぐん
Yarkhoto-muqun

中国・新疆ウィグル自治区トルファン市の西方、交河城の南に位置する都市に伴う墓地遺跡。東西約3㎞、南北約1㎞の範囲内に2000基に及ぶ竪穴土壙墓と方錐形横穴式封土墳とが累々と築かれている。竪穴土壙墓は、紀元前の車師前国時代から南北朝時代に造られ、方錐形横穴式封土墳は、麹氏高昌国から唐代に築かれている。竪穴土壙墓には規模の大小があり、大は直径10m以上の石囲みや、封土を持つ大型竪穴があり、小は封土や石囲みもなく、木棺を入れる大きさだけの例まで多様である。出土遺物には、金製品や青銅製品・植物製品・木製品・織物・土器などがある。豊富な黄金製品を持つ墓から、わずかな土器を添える例までさまざまである。なかに中国製の漢鏡や五銖銭をふくむ例があるため、前漢から後漢時代に、墓の中心年代があると想定できる。

前漢時代に、すでに階級差が顕著であり、王族や貴族層・武人などが存在し、国家が成立していたと考えられる。黄金製品に表現された動物文は、草原地帯を通じて西方はロシアのスキタイ、東方はモンゴルの匈奴との深い繋がりを示している。麹氏高昌国に始まる方錐形横穴式封土墳は、中国内地の墳形を採用し、石垣で長方形に囲んだ中に、複数の墓を順番に築いた家族墓である。墓室内には、土器などの副葬品を伴って2〜3体の遺骸が残っている。木棺が見当たらないところを見ると、すでに木棺材が入手しがたい自然環境になっていたのであろう。墓道から出土した墓表や墓誌によって、被葬者の氏名や地位・階級・死亡年月日と埋葬年月日などを知ることができる。時には出身地や配偶者名、生前の業績までわかる場合すらある。麹氏高昌国から唐代のヤールホト墓地被葬者は、交河城を生活の根拠地とした官僚とその配偶者が主である。わずかに残った絹織物の断片や金製品、鮮やかに採色された副葬用土器などから、東西交渉で利益を上げていた往時の繁栄を偲ぶことができる。

(岡内三眞)

以上、転載