殷墟文化 いんきょぶんか

殷墟文化
いんきょぶんか
Yinxu wenhwa

中国・河南省安陽市の北西の洹河両岸にある。殷墟を都城とした時期の遺物と遺跡の集合体。この殷王朝後期の時代は、考古学では殷墟期と呼ばれる。以下に殷墟の考古学的知見を中心に述べる。1899年、殷先王の名などが刻まれた甲骨文字が発見され、そして王国維の解読によって殷王朝の実在が確かめられ、この甲骨文の出土地が小屯村であったことで、殷墟の所在は確認された。1928〜37年の10年間、中央研究院歴史語言研究所により行われた15回の発掘調査で大きな成果を上げた。小屯村東北では宮殿・宗廟建築基壇、侯家荘西北岡では四つの墓道を持つ大型墓・小型墓と祭祀坑が多数発見され、文字が刻まれた甲骨17000点が出土した。後岡遺跡の地層関係から仰韶・龍山・殷文化の関係が明らかになった。

新中国が成立した後、中国社会科学院考古研究所安陽工作隊により発掘が継続され、1950〜70年代、武官村大墓、銅器鋳造工房や後岡遺跡の円形祭祀坑、大司空村南地の骨器製造工房跡・居住跡・庶民の墓地が発掘された。1971〜82年、後岡遺跡に墓30数基、小屯村西北に10数ヵ所の建築基壇、婦好墓などの大型墓、武官村北地に祭祀坑250基、殷墟西区に1000基ほどの墓が発掘された。1976年に発見された武丁の配偶者とされる婦好の墓からは、多数の青銅器・玉石器が出土し、殷王墓編年の大きな指標となった。1999年、洹河の北岸の殷墟と隣接する場所では、面積4万㎡の城壁が発見された。

長年の発掘調査の結果、殷墟の範囲と平面配置はほぼ明らかになった。東の郭家湾から西の北辛荘まで東西約6㎞、南の苗圃北地から東北の三家荘まで南北約4㎞であり、総面積が24㎢である。洹河南岸の小屯村東北に殷の宮殿・宗廟区があり、その周囲に手工業の工房、一般住居と庶民の墓地がある。洹河北岸の侯家荘武官屯北地区には王陵区がある。さらに、殷墟の周辺で貧困層の地上式住居跡が発見されている。王陵区では、13基の四つの墓道を持つ亞字形の大型墓があり、その周囲に多数の殉葬坑や祭祀坑が伴う。人骨のある祭祀坑が密集する武官村大墓の南は、殷王室の祖先祭祀の場所とされる。宮殿・宗廟区では53基の版築基壇が発見された。工房では玉石器・銅器・骨器・陶器などが製造された。玉石器工房が小屯村北地区に、銅器鋳造工房が苗圃北地区・孝民屯・薛家荘南地区に、骨器工房が北辛荘・大司空村・薛家荘南地に、陶器工房は薛家荘南地区・小屯村南地区にある。

殷墟の利用年代は殷代後期である。現在4期に編年される考古学の時期区分は、卜辞(甲骨文字)に対する時期区分(甲骨年代)と対応できる。すなわち殷墟1期は卜辞Ⅰ期以前の盤庚・小辛・小乙の時期、2期は卜辞Ⅰ〜Ⅱ期の武丁・祖庚・祖甲の時期、3期は卜辞のⅢ〜Ⅳ期の稟辛・武乙・文丁時期、4期は卜辞のⅤ期の帝乙・帝辛時期に相当する。その実年代はおよそBC1400年〜BC11世紀半ばに当たる。

(陳洪)

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