雲岡石窟 うんこうせっくつ
雲岡石窟
うんこうせっくつ
Yungang-shiku
中国・山西省大同市の西16㎞にあり、古くは武州塞、また「大同石窟」とも呼ばれた石窟寺院群。武州川の北岸の断崖に、45の主要窟と207の付属窟が穿たれている。主要な45窟のうち、第1窟から第4窟は東の丘に、第5窟から第13窟は中央の丘に、第14窟以下の窟は西の丘にある。1902年に日本の伊東忠太が訪ね、続いてフランスのシャヴァンヌ、中国の陳垣・鄭振鐸、日本の関野貞・常盤大定などが調査し、38〜44年まで水野清一・長廣敏雄らが詳細な調査や測量、写真撮影を行った。現在は、雲岡文物保管所が保護や管理、研究を行っている。
『魏書』釈老志によれば、北魏の文成帝の和平元年(460)に沙門統曇曜が発議し、先帝と今上帝のために5窟の開鑿が始められたという。曇曜5窟と呼ばれる石窟で、現在の第16窟から第20窟に当たる。いずれも大仏を中心とする尊像窟であり、大仏の様式に中央アジアや河西地域の造像の影響が見られる。太和18年(494)の孝文帝による洛陽遷都までに、主要21窟の開鑿は終わっていたらしい。遷都以降も、孝明帝の正光年間(520〜524)まで、五華洞(第9窟〜第13窟)や第21窟以下の西側諸窟の造営が続けられたが、それ以後衰退した。石質は砂岩で、石彫像は約5100駆を超える。石彫像に見られる着衣形式の変容を、孝文帝が太和10年(486)に行った服制の改革に結びつける説があるが、近年はこの服制をより早く採用した南朝の造営の影響と見る説もある。また雲岡石窟の分期や造営の次第についても最終的な決着を見ていない。
(中野照男)
以上、転載
